手鉤の正体

興味深い記事に遭遇した。
価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない
この方のブログタイトルが 【発声練習】 であることも面白い。
そのブログタイトルの由来も書かれている。

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表現するということは、外の世界に問うということ。
(中略)
価値の判断基準が外にある人間は
自分の内部にあるものが、外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい
表現を外に出せない。
外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

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・・・時々(というかしょっちゅう)
自分で自分の心に、手鉤が打たれることがある。

今打ったな、と気づくこともあれば
予期しない状態で来ることもある。

手鉤が大きい時もあれば、小さい時もあるし
深く刺さる時もあれば、浅い時もある。

何かをしようとする時
何かを言おうとする時
何かをやろうとする時

この手鉤を外したいのに、これの素性が分からないし
どういう時に来るかわからなかったから
かかってる、というのが分かっても、外せないでいた。

・・・なるほどな。。。。
外に問うフリして曲書いたり歌ったりしてきたけど
私は全然、表現者じゃ無かったな。

わはは。すがすがしいくらい凹む。
でも、頭の中は明晰。

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頭の中にあることを外に出せるようになるのが第一ステップ。
それを他人に伝えられるように表現力を養うのが第二ステップ。

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なんでこの手鉤が現れるようになったのか
いつからそうなっているのか
理由はもう、分かっている。

手鉤の正体がわかったから
少しは外せるようになるだろうか。

批判の矢面に立たされれば、血も出るし肉も削がれる。
しかし、発して問うということは、それもセットなわけか。納得。
なんか急に、腑に落ちた。

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発さずにいて、自分の心に手鉤を打ったままなら
発して表の矢に打たれても、血が流れるのは同じこと。
なら
発する方が、悔いは無いな。

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