なぜ歌おうと思ったのか

今朝、こんな記事を見た

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6387640

仮設住宅ではボランティアセンターなどを介さないボランティアが突然訪れ、大音量で音楽を演奏し、「がんばって」と呼びかけた。「支援に来てくれているんだから断れない。でも、もう疲れた。ボランティア疲れ」

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1995.1.17

阪神大震災。

テレビに延々と表示され、増え続けていく亡くなった方の名前に、10日前に会ったばかりの友人の名が連なるのが、瞳のガラスに鑿で削られるように刻まれた。

数日後、ミュージックステーションに出演したSMAPが、黒い服でこんな歌を歌った

とりあえずがんばりましょう
hey hey hey boy
空は青い 僕らはみんな生きている

ただ呆然と付けてたテレビ。

その歌を聞くまでは、音楽なんて聞きたくもなかった。

はらはらと涙が落ちて
まだ親友が死んだことと、自分が生きていることの差の理解が出来ないまま
ただ

僕らは生きている、んだな。

と、思った。

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10日ほど経って、仕事のため会社が借りてくれた部屋へ移るため大阪へ移動した。身の回りのものだけを持っていった、引越しとも言えないレベルの移動。

その翌朝、目覚ましがなかったので、持っていったオーディオコンポにCDを入れて、タイマーをセットした。

暮れてゆく道玄坂
偶然 あなたを見た

恋上手/古内東子

恋愛ソングで、歌詞としてはその時の心情にも響く類のものではなかった。

ただ、暮れてゆく、とか、あなたを見た、という言葉、抑えた声、静かなピアノ、ゆったりとしたベースの音だけで始まる音が、そばに居てくれた。癒される、というのとは別のもの。そこに、ただ、在る、という音。

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癒しを、とか、癒される、とか言う表現があるが、震災のような”傷つく”と言うレベルではない心の激震を受けた時、他からの何かが自分を”癒しに来る”と、いうことが、圧力になることがある。少なくとも、自分は、あった。そんなものは今は要らない、ほっといてくれ、1人にしてくれ、震災直後1ヶ月くらいは少なくとも、そんな感じだった。

ただ、そのアルバムは、癒されるというよりも、ただそこに居てくれるように感じた。

その当時古内東子さんはヒットしていて、少し情報を追いかけた。何かのラジオに出演されてて、そのとき、まだ今みたいに大ヒットする前、小さなライブハウスで、20人くらいのお客さん限定で、弾き語りのライブをやった、と言う話をされていた(何せ古い記憶のうろ覚えなので、情報は少し間違ってるかも)

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今朝、冒頭の記事を読んで、思い出した。

ああ、そういうのやりたい。
こういう音楽を、自分も作れたら。
そして、弾き語りで、それをやれたら。
そう思ったんだった。

+

なんで歌い始めたのか、自分でも良く分かってなかった。震災から1年後、音楽学校に入った時も、歌?ピアノじゃなくて?と面談の方に言われて、はい、歌です、と言ったものの、なぜ歌おうと思ったのか、ちゃんと言葉に出来なかった。

ひょっとしたら、PTSD的なものだったのか。震災の記憶の中に紛れて、思い出せなかったのかもしれない。分からないけど。

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オリジナルのアルバムを4枚作ってきた。heat elements2枚、ソロ1枚、XANADU1枚。例えばヒーテレは、車で高速走ってる時に聞いて欲しいとか、ソロは夜中に一人でただ引きこもりたい時に、とか、こういう時に流してくれるといいな、っていうイメージがある。

そんな風に、音楽を、これからもやれればと思う。

誰かの暮らしの中に、ぽつんと、あ、今日はあれ流しながら夕飯でも作るか、みたいな。そんな作品を、これからも作っていければと思う。

2021.3.14 9:03
寝床で記事読んで、はた、ってなって、そのまま一気書き、読み返しなし。この勢いのまま投稿

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