エンディング

昨日見た映画、【92歳のパリジェンヌ】

2002年、フランス元首相の母ミレイユさんが、92歳で自らの人生を終える日を決め実行した実話を、娘のノエル・シャトレ氏が小説に綴った「最期の教え」、それを元にした映画。


どんなことでも、終わりに向かっている。

飯を食うということですら、食い終わるという方へ向かっている。延々と際限なく食べ続けるわけではない。

どんな長い旅に出ても、いつか家に帰る以上、帰ってくることが最終目的。

どんな長い音楽も、そのエンディングに向かって音は続いていく。

どんな人も誰かの子供であり、誰かの意志として受動態で生まれてくるが、その人生は常に、終わりへと向かっている。

音楽や、食事や、旅や、自分で意図して行動するものは、その道中、そしてエンディングが心地よく美しいものであるように仕立てていく。

でも、人生は??

人生も、自分の手で片付けられないものか、やり切ったという気持ちになった時、こういう終わり方、こういう去り方、と自分で決めて実行できたりしないものか、と、実はずっと、思っていた。


2002年というと携帯電話がようやくそれなりに普及したものの、まだ持っていない人も多く、やっと二つ折りが出始めたくらいか。写真を撮って送る写メが出来始めたくらいの頃。パソコンは家族で共有していて、歌の生徒なんかは親御さんのアドレスに連絡メールを送っていることもまだ多かった時代。スマホもなければSNSもない。

そんな時代に今で言う”尊厳死”を選んだ、劇中ではマドレーヌという役柄の92歳の女性。

大事に手入れして住まわれてきたアパートの一室で、思い出の品や宝物を、紙にくるみ、箱に入れ、これは誰々に、これはこう扱ってね、とメモを貼りながら身の回りを片付けていくマドレーヌの姿に、映画冒頭部分なのにもう涙腺に来る。

わかる。めちゃくちゃ。わかる。


1995年の震災。25年前。震災前までの人生よりも、震災後の人生の方が長くなってきた。自分の人生のテーマとして【生きることとは】みたいな芯が生まれ、どの瞬間で終わったとしても後悔しないように生きよう、と思って生きてはきた。

けどどうだ。振り返ってみればそのほとんどが後悔だ。その時はこの決断しかない、絶対後悔しないと思ってやったことだって、あとから考えたら後悔にしかならないことなんて山のようにどころか殆どそれだ。

それでも、やり切ったら自分でいつか、みたいな気持ちはあった。

映画を見終わり床に着く。香雪を右手に撫でながら、天井からぶら下がるトルコランプの紫の灯りを眺める。

どのような人生も、その人が満足ならそれが一番良い。

でも自分は、自分の手で幕を引いたりは

決してしない。

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