ロマン

バルセロナの旅から帰ってきて1日が経過しました。
今回の旅は、サグラダファミリアを見に行くためだった、と言っても過言では無かった。中学の頃、初めてその存在を知って以来、惹き付けられて止まなかったサグラダファミリア=聖家族教会
完成に200年以上かかるという試算、1880年代から建設が始まって今も建築中という壮絶な時間の積み重ね。
一生に一度でいい、生きているうちにこれだけは見たい、と思っていたサグラダファミリア。
結局、あまりの凄さに、一日で全てを見られなかったので、2日に分けて行きました。
どちらの日も、写真が嘘のように感じられてしまうほどの、抜けるような、快晴。
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受難のファサード、という、キリストの受難を現したこの門には、可能な限り装飾を削ぎ落とすことで、受難の深刻さを表現した、という、徹底して冷たい直線的な造詣の彫刻が配されていて

中に入ると、森のようにそびえ立つ柱。写真では無機質なようだけど、中に入ると、どこか、温もりのある、有機的な石柱。
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そしてここそこに嵌め込まれ、まだ全部が揃っていない、ステンドグラスの数々。

まだ建築中の板敷きに、向かい側から入った光の色彩が、虹色を映し出して、本当に美しいの一言。

地下の博物館を抜け、裏に回ると、生誕のファサード。こちらは一転して、とても華やかで、穏やかな、柔らかい曲線の彫刻で壁という壁が埋め尽くされています。
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ここだけではなく、まだ未完成の栄光のファサード近辺の外壁にも、もうそれはそれは至るところに、彫刻が施されていて、そりゃあ時間かかるわ、、、という壮絶な人知の結晶。
現在の入り口は、”受難のファサード”側にあるのですが、入って全体を見た瞬間に全身鳥肌。人の手で、一つ一つ像を刻み、石を積んだ有機的な塔の姿。
建物に、強烈な意志を感じた。
母のお腹の中に居る胎児のような、まだ未完成だけど、体の割に心臓が大きいような、ドクッ、ドクッと脈を打つような、一種グロテスクとも思えるほどの、生々しい”生”のパワー。
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なぜ見たことも無いサグラダファミリアに、中学生の時にその存在を知って以来、こんなに惹き付けられてきたのか。
特にキリスト教を深く信仰しているわけでもなければ、建築マニアでも教会マニアでも無い。NYCでも確かに、教会の素晴らしさには何度も惹き付けられて、沢山写真も撮ったし、礼拝にも参加させてもらったけれど、NYCに行ったのは、教会を見に行ったわけではなかった。
・・・その疑問は、中をゆっくりと見て回るうちにはっきりしてきた。
全ては、このサグラダファミリアが【建築中である】ということ。
そう。私は、もう既に完成してそこに存在するものよりも、進行形で何かの形に向かっているものに、強烈に惹き付けられるのだ。
1882年から建設が始まって約130年。1世紀以上もの間、”建て続けている”建物なんて、この現代に於いて世界中、他のどこを探してもない。
それは、まぎれも無く、”ロマン”だ。
地下にある博物館の資料によると、ガウディは、詳細な設計図を遺してはいない。いくつかの模型と、紐と錘を用いた構造を検討する実験道具が以前は残っていたそうだが、それもスペイン内戦でほとんど消失したらしい。
それを、職人による建築技法や彫刻の伝承や、大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、各時代ごとの建築家が、ガウディの設計構想を推測して、建てて行く、という形で現在も建設が行われているのだ。
つまり、ガウディ、ひいては、この教会を建てよう、と思った人々の全ての意思が、集約されて、受け継がれ、伝承されて、130年も前に建てた土台の上に、どんどん、この教会建築に携わった人の遺思を投影し、かつ現在この施行に携わっている人の強力な”意思”を反映しながら、建てられている。
もうこの世に居ない人の意思が受け継がれ、進行形で発展して行く、という、ロマン。
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【思想を、哲学を、残したい】
これは私が、比較的若い頃から、自分が遺したいものとして到達していた、漠然とした答えだけれど、あまりに漠然としすぎていて、その残し方がずっと、分からないままで
バルセロナに行く前日には、こんな文章を書きかけて、ブログに載せるのをやめている。
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世間を賑わせている、NHK大河ドラマ、【龍馬伝】 昨日の回、高杉晋作が、この世を去った。

伊勢谷友介演じる高杉晋作の、凄絶な最期。本当に死んでしまったのではないかというほどの、伊勢谷氏の静かな凄みのある演技には、深く静かな感銘を受け、知らない間に涙が流れていた。

「僕の役目は、これで終わりです。あとは三味線を弾いて、歌を歌って、のんびり暮らすんです。

・・・あの世でね。」

浜辺で龍馬に自分の思いを託し、そう言って笑っていたが、後日、一人で同じ浜辺に来て、慟哭する。生への激しい執着。自身の体の中で終わって行こうとする、自分の命の灯火と対峙する。

それは、どんな気持ちなのだろう。堂々と迎えられるものなのだろうか。みっともなく、最期まで、死にたくない、と鼻水をたらして泣くのだろうか。

取り乱すか、案外と落ち着いているものなのか。そのことだけは、自分自身に降り掛かってみないと分からない。でも、その瞬間は、等しく、誰にも、やってくるのだ。

早逝する人、長く生きる人、志半ばで逝く人、早くから志を叶えて生きる人

人は皆、何かの使命を受けて産まれてくるというが、自分の役割とは何だろう。

齢四十、不惑の年になって、生きることそのものに対する迷いはすっかり無くなって、最後まで命をまっとうする覚悟が出来た、という感覚だけれど

さて、肝心の使命、となると、まだよくわからない。

漠然と見えているのは、思想と哲学を遺したい、ということだけだ。

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思想/哲学を伝えるには、自分の声で、自分の手で書く文字として、遺さなければならない。
声を残すこと。
言葉を遺すこと。
それが、私の使命なのかもしれない。
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私がこの世を去った後に、録音した声を誰かが聴いてくれたり、思想を思い出したり、そのことをまた誰かに話して、どこかの誰かの、生きる力の支えの1本にでもなることが出来たら、自分がこの世に生を受け、修行に出された意味はありそうだ。
サグラダファミリアのように数百年もの間、受け継がれ続ける進行形のロマンを遺せる自信は、今の私には無い。
でも、1900年代後半から2000年代にかけて、一人の女が、思想を重ね、生きて、伝えることで誰かとつながり、その誰かがまた誰かとつながって、また明日生きて行く、という思いの連鎖が出来れば
それ以上の、ロマンは無い。
思想と哲学を遺すこと。
それは、私の、ロマン、という名の、願いなのだと思う。
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