夜景とバランス

私の仕事は、音楽家。
そして、国の出先機関での電気自動車に搭載するための電池の研究員。


それだけ見ると、両極端のように見えるかもしれない。
実際そういう風に言われることも多い。


けれど、私の中では、その2つの仕事は
私を真ん中にしたシーソーのようなもの。
片側の端っこに、大きな ”音楽” という仕事。
もう片方の端っこに、これまた大きな ”研究” という仕事。
その二つがあるから、私は真ん中で、真っすぐ立って居られる、と思っている。
これが片方だけだと、最初はいいのだけど
どんどん傾いていって、背骨が曲がって、バランスを崩してしまうように
私はいつも感じている。


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自分自身が両極端の真ん中でバランスを取っているような人間だからか
私は
バランスが悪いということに対して、比較的強く反応してしまう。


例えば
イルカやクジラを全部保護しろというような、極端な自然保護主義
観測出来ないものは存在しないというような、極端な科学絶対主義
音楽でも
黒くなければ音楽じゃない、というようなBlack Music至上主義や
クラシック以外は俗物、というようなクラシック至上主義
といったもの。
どれも、存在するものだ、というのが私の考え。


犯罪もか!と言われれば、その通りだ。
正しいとか悪いとかいうことではない。
人間の本能にすら、性善説と性悪説があるように
光と影、善と悪、左と右の、ちょうど真ん中に
”中庸”が存在している。


自然主義を追求しすぎると、人間不要論になる。
科学主義を追求しすぎると、目に見えるものだけが全てになってしまう。
音楽と科学の真ん中で私がいつも思うのは
科学、進歩、それ自体は、人間の自然な進化だ。
毎日暮らしていれば、当然、道具が進化する。
同じことを繰り返していたら、より良い方法を考えたくなるのが
人間、動物の心理だ。


太古の時代から、最初は水を手ですくっていたものが、土器を作り、金物を作り
そういう先人の知恵の途方も無い積み重ねの上に
現代は乗っかっている。

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私は原発を無くすことには賛成だが
電気が要らない生活に戻せ、というような考えには
あまり賛同出来ない。


不要な電気は使わない。
進化を尊重しつつ、地球との共生を考える。
そのバランスが、大切だと思う。
電気が発達し、科学が発達したからこそ
今回の震災も、情報が早く回り、援助の手がすぐ海外から差し伸べられたのだ。


これが江戸時代ならそうはいかない。
被災地は取り残され、淘汰の運命をたどる。
江戸時代と言ったって、ほんの140年前のことだ。
そこには
シーソーのようなバランスが必要だと思う。


===
私は
夜景が大好きだ。
生まれ育った神戸は、海と街と山が近く
”自然”と”都市“が共存しているような街。
その境目で私は育った。


家の真裏に六甲山があり、山に生えるイタドリをおやつに
夕刻に沈む神戸の海と、灯り始める色彩豊かな夜景を眺めるのが、幼少の日課だった。
神戸の震災後、真っ暗闇の街は、本当に寂しく不安で
初めてルミナリエに電気が灯った瞬間
これほどまでに光が人に安心感を与えるのかと思った。


家路に着くとき、自分の住む町や、友だちの家
そして自分の家に光が灯っている時に感じる
あの、何とも言えない暖かさ、安心感。
それは、科学の進化が作ってきたもの。


まだろうそくの火だった時代でも、結局は同じことだ。
人の進化が、灯りを作ってきた。


今、かの被災地ではまだ電気もままならず
不安な夜を過ごされていると思う。
そして片や、大阪でも、
原発問題に対してデモが起こり
新聞もようやく、取り上げ始めた。


不要な電気、不要な進化は無くすべきだ。
しかし、進化の先に生まれた、安心もある。
何が必要で何が不要か。
本当に必要なものを選ぶ時代が来たのだと思う。


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夏場に長袖のセーターを着なければならないような冷房は要らない。
しかし、夜を統べる闇を照らすのに
必要な灯りはある。

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