選ぶのは自分

音楽仲間としばしば話題になること。
レッスン生や、後輩たちに、どこまで、どう教えるか。

===
レッスン生の中には、プロになりたい人もいれば
アマチュアや、単に趣味でやりたいだけです、という人もいる。

後輩たちも、プロを目指すにしても
プロの形がいろいろある。

そのプロになりたい、と思っていても、なれるかどうかは別で
機会に恵まれなかったり
実力が伴わなかったり
途中であきらめたり
家庭事情が許さなくなったり。

===
私は
プロになりたい人、アマチュア、趣味でやる人
実力や年齢の差
どれにも関係なく、等しく同じように教えている。

その人の性格的なものに合わせて、教える順序だったり
教え方、説明の仕方は当然変えるが
アマチュアの人にも趣味の人にもプロ志向の人にも一様に
技術的なこと、精神的なこと、目指すもの
言うことは同じだ。

つまりアマチュアや、プロになろうかどうしようかと迷っているような方にとっては
プロになりたい人と同じことを言われ、同じ精神力を求められることになり
それはキツすぎるんじゃないのか、相手はそこまで求めていないかもしれないし
そこまで教えてプロになれるわけじゃない、別にそこまでしなくても、という意見もある。

===
どこまで教えても
どんな風に教えても
それを解釈し、実行し、練習し、取捨選択するのは相手、つまり生徒や後輩たちだ。

それは、こちらが決めることではない。

というか、何を変えて教えるというのだろう。
それでいいよー、そんな感じ、いぇい、いいねーと
何でもかんでも、良くもない演奏を褒めて、良いねと言えるほど
私は器用ではないし
それでいいよーというほめ言葉は、言い換えれば「どうでもいいよー」だ。

相手に失礼ともいえる。
教える方は、自分の思う音楽像、音楽への姿勢を
自分が思うように教えるだけで
後は、習った方がどうするか、だけのこと。

そんなことはこっちの知ったことではない。
一生懸命やる人はやるだろうし
右から左の人もいるだろうし
それもまた、内容にもよる。

そもそも、どれほど真剣に教えたからといって
日々考え、練習し、向き合うのは
本人以外はできない。

===
先日、テニスの松岡修造氏が、小学生にテニス合宿をするという番組を見た。
なぜかこの特集の時にたまたまテレビを付けることが多く
チェックしているわけではないのだが、逃さず見ている。
そこに居る小学生たちは、目指すもの、考え、年齢、実力
みんなバラバラ。

でも修造氏は、どの子にも一様に
厳しく接し、だめなところは叱りとばし
いいところは思いっきりほめる。

テニスやり始めたような子供相手にそこまで、というくらい
真剣に接している。

3日間の合宿の間の子供たちの成長は
毎回目を見張るものがあり、いつも感動させられる。
ああいう大人が、必要だと思うのだ。

===
昨日のセッションでは、毎度私の厳しい顔が仲間内で評判になっているようだが
同じステージに乗る以上、アマチュアです、まだプロ志向です、とかは関係ない。

音楽に向かう姿勢がテキトーで、同じステージに乗っている人たちに愛の無い奴には
容赦なく接してしまう。

厳しすぎるのかもしれない。
でも、厳しく接されるのが嫌なら、そういう人は、もう二度と来ない。

そういう人は、にこにこと優しく接していたら、ずっと来てくれるのかもしれない。
しかしそれでは、向上心が強く、何かを得て帰りたい人もまた、二度と来なくなるだろう。

結局、選ぶのは、その人。

===
教えるということに関して、私は
”どこまで教えるか”という迷いはない。
言ったことが難しすぎて、理解できなきゃそれでいい。

理解しようとするのもまた、その人であり
言われたことがどこかに残っていて、行った先でそういえばあの時あんなことを、ということもある。

そういう厳しい先輩や先生たちに
私は習ってきた。

習わないまでも、その背中を見てきた。
自分は自分の背中を見せるだけだ。
それ以外に、教える方法など思いつかない。

Follow me!